天才落語家の定義
【天才】と呼ばれる方はいらっしゃると思います。
もちろん、落語の世界にも、
【天才落語家】と言われる方はいらっしゃいます。
では、この【天才】の定義というのは
一体何なんでしょう?
何を指して【天才】と呼ぶのでしょうか?
どんなに天才と呼ばれる人でも、
全くウケずに、ダダスベリした高座というのは存在すると思います。
修行時代だけではなく、
天才落語家の名を欲しいままにするようになってからでも、
何回かは【ダメな高座】があったはずです。
『人間なんだから当たり前だろ?』と言われるかもしれません。
しかしそれを認めると、
【天才落語家もスベる】という事実から、
【何度かスベっても天才である】という命題が
成り立つ事になるんじゃないでしょうか。
古典落語にも『竹の水仙』や『浜野矩随』といった
【名人もの】と呼ばれるジャンルの噺があります。
【上手の手から水が漏れる】という言葉がありますが、
職人の世界の【名人】というのは、
【上手の手から水が漏れない】のを
名人と定義づけているようなところがあろうかと思います。
仕事に一分の隙もないのが名人なんでしょうね。
実際、人間国宝みたいな方が作る物に、
【明らかな失敗作】というのは存在しないでしょう。
それが【天才】なんだろうと思います。
そうしてみると、
スベってもいいという事なら、
落語というジャンルにおける天才というのは、
随分、ハードルが低くていいんだな~みたいな
そんな風に思われてしまうのではないかと
ちょっと思ったりもしているのです。
これは、かなり
【意地の悪い見方】であるとは思うんですが、
折に触れて、天才落語家の定義というのを
ついつい考えてしまう私です。
微笑亭さん太