夏休みの自由研究 『トリネタ不要論』
すべからく時間的に長くて、難しいものが多いですが、
こういった、いわゆる『トリネタ』と呼ばれる大ネタというものがあります。
今日はあえて、
『落語に、トリネタは不要である』
という提言をしてみたいと思います。
『芝浜』『文七元結』『鼠穴』『百年目』『口入屋』……
名作と言われる古典落語は、トリネタの中に多く含まれています。
落語の核の部分を担っている事は間違いありません。
そのトリネタが不要などというのは、
『暴論』以外の何物でもないでしょう。
それを承知の上、顰蹙覚悟で主張してみたいと思います。
『落語に、トリネタは不要である』とする根拠のひとつに
『トリネタは時間が長い』という事があります。
上に挙げた噺はどれも、40分、50分は当たり前、
中には1時間を優に超える噺があります。
寄席であれ独演会であれ、何席も落語を聞かされたお客さんに対し、
最後の最後でこの分数は長すぎませんか?という事です。
そもそも、これらのネタを演るにあたって、
そんなに長い時間が必要なのでしょうか?
私見ではありますが、私はどんな大ネタでも、
『20分』には、まとめる事ができると思っています。
そう言うと、
「いやいや、ここの場面はカットできないから」とか
「この描写が見せ場だから」と仰る噺家さんはいるでしょう。
でも、それは大体の場合、演者の思い入れが強く、
演り手がそう思っているだけで、お客さんの思いとは
乖離(かいり)している部分が多々あるのではないでしょうか?
噺を編集できる能力を持っていながら、それを拒否し
ただ『原文のまま』長い噺を演り続ける事は、
単なる『演者のマスターベーション』になってしまってるのではないでしょうか?
『最高のエンターテインメント』であるはずの落語が、
お客さんをグッタリ、ウンザリさせてしまっては本末転倒です。
実際、独演会などで3席演る場合、
2席目に大ネタを持ってきて、3席目はさほど大きくない
笑いの多い噺を演られる噺家さんがいらっしゃいます。
これはお客さんの体力のあるうちに大ネタを演っておき、
最後は軽く笑って帰っていただこうという、
クールダウン的な意味合いもあるのではないかと思います。
私はそれは、秀逸な構成だと思っています。
それから『トリネタ不要論』のもうひとつの理由は、
『質より量も大切では?』という事です。
早い話が、落語会にお客さんとして行った場合、
『1時間のネタ1本』と『20分のネタ3本』、
ぶっちゃけ、どちらが聞きたいですか?という話ですね。
もちろん『長講一席、聞きたい!』という
前者を選択される方もいらっしゃるでしょうが、
過半数のお客さんが、後者を選択されるんじゃないかと思いますね。
それなりの木戸銭を払って行った落語会だったら、
ある程度、色んな噺を聞きたいというのが人情じゃないでしょうか?
私も昔、ある師匠の独演会に行った時、
『子別れ』の上・中・下というのを聞きました。
それ自体は良い落語会だったんですが、
本音としては『色々、違う噺を聞きたかったな~』でした。
そして『トリネタ不要論』、三つめの理由は
それにも絡んでくる事ではあるんですが、
『新しい落語ファンを作る上で、デメリットになってはいないか?』という事です。
落語の事はほとんど知らないけど、
面白そうで、ちょっと興味があるから、見に行ってみようという
『落語ファン予備軍』の方が落語会に足を運ばれた場合、
いきなり『子別れ』上・中・下と聞かされて、
また落語を見に来ようと思ってくれるでしょうか?
やはり『子ほめ』や『寿限無』、『牛ほめ』、『まんじゅうこわい』といった
初心者にも理解でき、安心して笑えるネタを用意してお待ちするのが
演者側の正しいスタンスなのではないかと思います。
古典の名作であるトリネタ群が、新しい落語ファンの芽をつむような結果は
絶対避けなければならないと思います。
以上のような理由から、
『落語に、トリネタは不要である』という提言をしてみました。
最初にも書いたように、これが暴論である事は判っていますし、
ここに書いてある事が、必ずしも『私の本音』というわけではありません。
あえてこういう提言、こういう書き方をしてみて、
実際このような意見を言われる方がいたら、
世の社会人落語家の皆さん、落語好きなお客さんは、
どう反論をされるのかを、ちょっと聞かせていただきたいな~と
思ったりしています。
微笑亭さん太